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富士川(ふじかわ)
富士川

[66.2]╂三郡橋
富士川大橋
(1998年開通)
富士橋
(1960年架け替え)
鹿島橋
月見橋
[54.2]╂峡南橋
富士川橋
[48.6]╂飯富橋
早川━[46.4]┫
身延町)[45.7]╂富山橋 (下部町
[39.4]╂身延橋
南部橋
(1957年開通)
[25.7]╂富栄橋
[20.9]╂万栄橋
(富士川にかかる峡南の橋
、富士川河口からの距離[km])
・警戒リンク 富士川水位]/川の防災情報国土交通省
富士川の雨量水位]/山梨県雨量水位情報山梨県
・富士川リンク こちら

・富士川雑記 はじめに
2002.04 HIVIX社製 !NEW! KALALI3000 & KALALI4500 で川下り
2002.02 ヤマメ解禁3月〜9月
2002.01 富士川 川づくり懇談会
2001.09 9/16Eボート in 中富
2001.08 9月開催の山梨学講座「富士川の流れ」〜講演と現地学習、パネルディスカッション のご紹介
2001.07 富士川の歴史 −船頭が活躍した三百年− 展/身延町立図書館
2001.06 (Eボート、スポレク)
2001.05 富士川水防訓練 /南部町
2000.08 富士川楽座 −東名富士川SA−
2000.06 Eボート −夢いちば川の都−
2000.05 カヌーツーリング −県スポレク祭−
2000.04 大法師さくらまつり −写真集「富士川」展−
2000.02 甲斐のみちゆき −甲州道中と富士川舟運− 展
2000.01 甲西バイパス
1999.10 写真で見る富士川舟運と甲斐観光資料展のこと
1999.04 富士川舟運まちづくりフォーラムのこと (富士川舟運の歴史)
1999.03 写真集「富士川」のこと


99.04はじめに  99.04舟運の歴史  00.05富士川リンク  00.06富士川あれこれ・水源 


(2002.04.23)
富士川を下りました。富士橋(鰍沢)から中富町役場までの約1時間40分。 船はハイビックス社のカラリというニュータイプ。一昨年に富士川交流で試作品を見ましたが、その市販型です。カヌーではなく、カタマラン(双胴船)というカタチです。 富士川交流のN藤氏と私はKALALI 3000という(全長3mということかな)2人乗りで。
スカイ朝霧のN村さんらとカイト村のK藤さんらがKALALI 4500という6人乗りタイプで、分乗しての川下りでした。
カラリは軽いので大人2人で簡単に持ち上げられます(KALALI3000で25kgとか)。骨組みが無いので、組み立て前は袋1つの超小型。エア入れは、KALALI4500へはやや元気の無いコンプレッサでも15分、KALALI3000には手動ポンプで50往復+αで数分でした。 双胴にシートを載せるだけ、2艇作るのに30分かかりませんでした。
軽すぎて川を上る風に押し戻される感じで川下りの時間は予定より多少余計にかかりましたが、水深が浅い部分で多少底をすっても平気とのことで、浅瀬にも何とも無く、富士川のこの区間を下るには最適なんじゃないかな。 なんてったって3歳児も母親と一緒に2時間弱を下りましたから。楽しかった♪ですって。カヌーじゃこうは行きません。
(HIVIX社:画像がちょぃ重。船の情報もまだ無いです。)
(KALALIは、これこれ。こちらの西華産業さんで紹介されてます。)
ちなみに、今回載せていただいた船は、 スカイ朝霧 さん提供です。

ちなみに、4月から甲府工事事務所の富士川上流・中流出張所の管轄が変わったようです。今まで早川橋(身延町)以北まで上流出張所管轄だったのが、富士橋(鰍沢町)以北までになり、今後は富士橋以南は中流出張所(南部橋脇)の管轄とか・・・。

(2002.02.24)
富士川漁協では3月1日、早川漁協では3月15日、ヤマメ解禁ということです。
遊漁料金[円]日釣券(前売)日釣(現場売)年券メモ
富士川漁協8001,2004,000小学生以下無料
早川漁協1,0002,0004,000〃、3/15〜9/30
昨年4月下旬に稚魚、本年2月下旬にはヤマメ成魚を大量放流とのこと。遊漁料への不満を耳にしないでもありませんが、漁協のかたも維持管理に尽力されてますんで、ルールに沿って釣りましょう。漁協の役員の皆さんには川下りにもご理解頂いて、と。ちなみに今年(2002年)のEボート富士川下りは9月8日(日)が予定されています。

(2002.01)
国土交通省甲府工事事務所さんの川づくり
懇談会(富士川中流 1/24)というのに出席させて頂く機会がありました。詳細は後日(といいつつそれっきり・・・?)。 富士川あたりでは、釜無川、笛吹川、富士川中流、富士川下流(静岡側)という枠組みで、懇談会を設け、富士川の川づくりを進めるそうです。この事業へは、ご意見募集ページがあります。いまが計画策定期間との事で、言うなら今!

(2001.09.10)
またまた
富士川Eボート交流会は9・16中富町役場前河川敷で行います。

(2001.08.予告)
平成13年度の山梨学講座は「富士川の流れ」と題して、富士川の自然、過去から未来への時間の流れ、文化的流れ(影響)の3つの視点からの企画だそうです。対象は県民一般、受講料無料。
9/2(日) 1:00-4:30PM 市川大門町民会館 <基調講演><シンポジウム>
9/8(土) 1:10-4:00PM 鰍沢町教育文化会館 <講演「水害」「船頭」>
9/12(水) 9:30AM-4:20PM 鰍沢〜静岡の現地学習<富士川を訪ねてバス移動[要申込み]>
9/22(土) 1:40-4:30PM 中富町総合会館 <講演「堤防工事」「地方病」>
9/29(土) 1:40-4:20PM 増穂町町民会館 <パネルディスカッション「まちづくり」>
以上の予定です。詳細は募集要項のページ
http://www.manabi.pref.yamanashi.jp/topic/fujikawa.htmlへ。報告(予定)


はじめに
富士川は、釜無川と笛吹川が富士川大橋の辺りで合流し、大きな流れになります。 水源は主流釜無川の南アルプス鋸(のこぎり)岳で、河口まで約 128km。八ヶ岳、秩父山地、富士五湖から甲府盆地に注がれる流れは全て富士川に合流します。

富士川は慶長12年(1607)に徳川家康の命にて京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)により開削されて以来、明治末に身延線が開通するまで、甲斐(甲州街道)と駿河(東海道)を結ぶ重要な水運でした。

鰍沢(かじかざわ、富士川右岸、現鰍沢町)・黒沢(くろざわ、富士川左岸、現市川大門町)・青柳(あおやぎ、富士川右岸、現増穂町)の三河港から、岩淵(静岡県富士川町)までの18里(約72km)を、明治の最盛期には800艘もの舟が往来していたそうです。特に鰍沢は駿州往還の宿場として栄えました。

人も貨物も富士川水運によっていましたが、その第一は年貢米を江戸へ積み送る「御廻米(ごかいまい)」で鰍沢から東海道まで6〜8時間程で川を下り、上り荷は塩荷が中心で「御廻塩」と呼ばれ、舟に積んだ塩や海産物を曳いて4〜5日かけて鰍沢まで戻りました(曳船)。 信州・甲州では塩の事を「鰍沢」と呼んだとか。 明治以降は産業の発展に伴い、下りは各種物産品、上りは砂糖や日用雑貨品が運ばれたといいます。


(2001.07.30)
7/3(火)〜13(金) 10:00〜17:00、身延町立図書館にて「富士川の歴史 −船頭が活躍した三百年−」展があり、舟運に関する資料や写真が展示されました。・・・見に行きそびれました。

(2001.05.31)
今年の
富士川Eボート体験試乗(夢いちば川の都)は5・26富士川クラフトパークで行いました。
今年のスポレク5・27カヌー競技はあいにくの雨でした。(参加できませんでした)

(2001.05.31)
5・25富士川水防訓練に消防団員で駆り出されました。場所は南部の火まつり会場にもなる南部橋のたもと河川敷です。想定では台風接近で河川増水し、防災ヘリが出動、中洲に取り残された人を発見し、そこへホバークラフト(昨年国土交通省甲府工事事務所で購入とか)が出動し救助します。また河川パトロール車が堤防の決壊危険個所を発見、県や町村と連絡をとり、ここで消防団が出動、木流し工法・土のう積み工法・シート張り工法・倉組み工法を実施しました。リハーサルと併せ平日2日の動員は辛いものがありました(消防は帰庫後がまた長い・・・)。作業の出来栄えは・・、工法の練習を2晩しただけの成果はあったんじゃないかな。
ちなみに去年の台風では、初めて見るくらいの富士川の増水がありました。 それを踏まえての訓練だったのでしょうか。

(2000.08.26)
海へ行った帰りに回り道をして富士川楽座に寄りました。静岡県富士川町、旧国1富士川橋近くの楽座は4階建のビルで、3Fは東名富士川SAの駐車場と接続しています。夏休み最後の土曜日、1Fの駐車場は一杯でした。1Fはコンビニ、2Fは「どんぶら」という体験科学館(有料)。これはパンフを見ると、水に絡んだ音や生物と石の情報パネル&PCがあり、子供が遊べるアスレチック施設があるようです。並びの展示スペースでは大型のクワガタなど売っていました。3Fは売店と食堂、4Fの展望ラウンジは富士川の河原が見下ろせました。"全天候型アミューズメントモール"ということですが、どうせなら河原へ降りて遊べればいいのにね。
富士川楽座のホームページは、
http://www.fujikawarakuza.co.jp/

(2000.06.14)
6・11の富士川Eボート体験試乗会「
夢いちば川の都」は雨のためあえなく中止、屋内での救命講座となりました。とほほ。今年は9(金)に梅雨入り、10(土)に鮎釣り解禁です。
富士川の水源は山梨・長野の県境にあるそうですが、平成4年に改めて調査して水源を確定、それから毎年水源ツアーを行っているそうです。今年は8・6(日)。 建設省で水源についての資料を頂いたので引用しました。富士川の水源

(2000.05.21)
山梨県スポーツレクレーション祭(スポレク)のカヌーツーリング駅伝に参加しました。鰍沢の旧河岸あたりを出発し、中富町切石の町役場までの10?kmの区間に24チームが出艇しました。流れに乗ってたやすく下れると思ったのは間違いで、途中5〜6個所は川底の段差に波立っていて船底を擦り、カヌー川下り初体験の私は転覆しないかと冷や汗ものでした。布地のファルトボートも用意していましたが、きっと破れていたでしょう。カヌーも借りておいて良かった。しばし舟運の昔に思いをはせた1時間半でした。
終了後、富士橋に戻って、今度はファルトボートを浮かばせて遊びました。安定性は抜群で、レジャーとして家族で楽しめます。

(2000.04.07)
日本の桜百選にも数えられる、鰍沢大法師(おおぼし)公園の二千本の桜を見てきました。公園内にて村田一夫さんの写真集「富士川」のパネル展示があり、ご説明下さったのはご子息の方でした(私の父と同年でした)。
富士橋の周辺の移り変わり、倉庫跡の事、富士川水碑の事などを教えて頂きました。角倉了以の記念碑は京都に在るそうですが、鰍沢にも記念碑を、という話も有るそうです。2007年には、富士川開削400周年になります(まだちょっと先のことですね)。

(2000.02.24)
県立図書館にて4/6迄開催中の「甲斐のみちゆき −甲州道中と富士川舟運−」を見てきました。甲州文庫などからの資料や滑稽本が、「富士川の開削」「身延詣」「塩と廻米」などのテーマ別に陳列されていました。絵図や絵葉書などは南部の資料展のほうが多かったかな。今日、目にとまったのは富士水碑の拓本と、中富町史、甲州塩販売史考など。最近本を読む時間がなかったので、今度時間を作って読んでみたいものです。碑の拓本も取ってきたいし。
南部の資料展で展示されていた富士川風景の絵葉書が、ここでは拡大コピーでパネルにされていました。やはり、富士川の水量は今とそれほどは変わらないかもしれない。富士川の開削は展示資料によると、狭い急流は広げ、広く浅いところは掘り狭め、滝状の段差はならしたとのこと。舟運の為には人工的な河川の維持があったんでしょう。それでも明治に蒸気船を運行しようとした人がいたけれど、船底をすって思うように動けず、厄介船と呼ばれたとか。
塩販売史考によると、下りは10時間ほどで、上りは一艘に塩48俵載せて船頭3〜5人で4日間、5〜15両で運行したとか。また、魚干物は4日に対して、生肴類は3日で運んだそうです。
中富町史には、鰍沢の河岸は山梨郡(甲府・釜無川と笛吹川の間の辺り)の荷受け、青柳の河岸は巨摩郡(釜無川以西の辺り、いまの北巨摩・中巨摩・南巨摩)の荷受け、黒沢の河岸は八代郡(笛吹川以東の辺り、いまの西八代・東八代)の荷受けと管轄が分かれていた事が記されていました。(だから「三郡橋」があるんですね。)

(2000.01.10)
書こうゝと思いつつずいぶん日が経ってしまいましたが、鰍沢町内52号線の富士橋西交差点あたりの住宅が昨秋全て潰されてしまいました。舟運の賑わいを感じさせた水路ぞいの建物なども全部。甲西バイパス(中部横断道沿いに韮崎方面から甲西町まで開通済)が増穂から鰍沢の土手沿いを通って52号に接続する場所とか。
またこの地区住民が退去したため、舟運にゆかりの神社の維持管理が困難になっているとかの新聞記事も見かけました。詳細はまた後日。

(1999.10.11)
南部町にて催された、写真で見る富士川舟運と甲斐観光資料展(南部町立図書館)に行ってきました。 個人所有の、明治から昭和初期にかけての山梨県内各地の観光パンフレット・絵葉書など、興味深い資料がたくさん展示されていました。これはお勧めで、常設で見せて頂きたいものです。 富士講で賑わう富士山の様子、 下部温泉源泉館の樽づめの鉱泉水を身延線に積む様子、 身延山ハイキングに久那土から身延まで無料川下りがついた観光ツアーのパンフや、 帆掛け舟の走る富士川往来の様子など。 昔の方が川の水かさが多かったという話も聞きますが、写真で見ると富士川の水量は今とそれほどは変わらないかもしれません。

(1999.4.25)
鰍沢町にて催された、富士川・舟運・まちづくりフォーラム(主催:富士川舟運まちづくり実行委員会)にいってきました。 鉄道、そして道路輸送の発展により今は完全に姿を消した富士川舟運の、 史跡も資料も次第に失われつつあり、歴史的・民族的・学問的にも、 見直され、保存への気運が大きい事を知りました。 発掘というと考古学を想像してしまいますが、数多くの河川氾濫にさらされた江戸〜明治の河岸跡も1〜2mの地中に眠っていたそうです(1996年度発掘調査)。 また県の博物館の誘致活動もあるそうです。
富士川舟運の歴史
1598慶長3(8.18秀吉没)
1600慶長5(9.15関が原の戦い。家康天下をとる)
1601慶長6(東海道整備さる。伝馬制布く)
1603慶長8(家康征夷大将軍。江戸に幕府)
1604慶長9富士川改修始まる
1607慶長12角倉了以による改修工事完了。通船開始
1632寛永9御廻米の開始
1765明和2甲府・石和に続く、市川代官所設置
1875明治8富士川運輸会社設立
1889明治22東海道線開通
1903明治36中央線(甲府−八王子)開通
1915大正4富士身延鉄道(富士−芝川)開通
1920大正9富士身延鉄道(身延−富士)開通〜この区間の舟運終わる
1923大正12身延乗合自動車(鰍沢−身延)運行開始
富士川運輸会社解散
1928昭和3富士身延鉄道(鰍沢−身延)開通〜舟運の終焉
参考文献:
新津健「発掘事例からみた舟運」富士川舟運まちづくりフォーラム資料1999
ほか

(1999.3.5)
村田一夫さんの写真集「富士川」(発行:富士川会)を手にしました。まだコンクリで固められる前の、渡し舟が生活に密着していた頃の、また台風で度々橋が流されていた頃の富士川の写真と町の様子が収められています。

明治40年に富士−身延間の鉄道の建設が始まり、大正9年に富士宮−身延間が開通することで身延以南(下流)の舟運はほぼ途絶え、また昭和3年に鰍沢−身延間が開通する事で、富士川舟運は300余年の歴史を閉じたとの事です。
身延線開通までは、鰍沢から中富・下部・身延の方へは陸路より水路が当たり前だった様で、身延山への修学旅行、身延山参りに舟で下る人々を写した写真が載っています。

昭和30年代前半までは、渡しの船頭さんがいたようですが、鉄骨の永久橋の完成や、道路事情の改善により、その姿も見られなくなりました。

外部リンク

富士川あれこれ
  1. 河口の広さは日本一。
  2. 三大急流(富士川・最上川・球磨川)の一。
  3. 流域面積 3,990ku(全国15位/109水系)
  4. 幹川流路延長 128km(全国32位/109水系)
  5. 水源は南アルプス鋸岳山塊、山梨県白州町・長野県富士見町の県境沿い、標高約1,700m
  6. 平成4年8月7日に水源碑を設置
どっちが本流?
流域面積幹川流路延長
甲府盆地南端
釜無川1080.2ku77.0km面積広い、長い
笛吹川1039.7ku54.2km
釜無川87.9ku15.5km面積広い
立場川38.3ku17.5km
標高約1,200m付近
本谷7.9ku3.6km県境。流量は同じ位
中川8.1ku4.5km(水源未確認。標高2000近く?)
標高約1,600m付近
本谷0.7ku0.3km河床が低い
右支川0.7ku0.2km(水源未確認。)
富士川水源碑設置委員会が平成4年に富士川水源を釜無川本谷最上流地点に決定。
@昔から国境で、地元では本谷が本流と伝承されているから。
A秩父古生層と四万十層の地質の境目でほぼ直線であり、中川流域より谷が深いから。
B昭和41年に河川法で釜無川本谷が富士川本川と告示されているから。
ということです。

出典:「富士川の水源」富士川水源碑設置委員会/平成4年




2001.09.10 updated. 台風15号接近
2000.05.26 updated.
2000.04.09 updated.
1999.07.07 updated.
1999.05.21 updated.地図作成.
1999.03.05, 01.28 updated.
1998.12.28 updated.
http://kyonan.net/goo/ 山梨県は峡南地域のご案内
mailto:goo@kyonan.net
written by kasait.